登別伊達時代村 その4
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観劇ゾーンを抜け、村の一番奥、 片倉小十郎屋敷に到着 |
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片倉小十郎景綱は伊達政宗の右腕として使え 慶長7年白石に拝領。その後代々270年間居城。 |
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明治になり片倉家家中が登別へ移住し 開拓にあたったのだとか |
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敷地内の枯山水蓬莱庭(かれさんすいほうらいてい) 蓬莱とは中国の道教の流れを汲む神仙思想で |
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仙人が住むとされた仙境の1つ。 やがて蓬莱庭と呼ばれる庭園の一様式が生まれたとの事 |
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蓬莱式の枯山水(水を用いずに石組みや砂で山河を表現した庭)は 小砂利を大海に見立てた「天橋立」や |
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3つの神仙島「蓬莱」「方丈」「瀛州(えいしゅう)」を配している |
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敷地の奥は落ち着いた日本庭園で |
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お屋敷の中は刀資料館と |
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時代劇撮影所となっている |
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まずは刀資料館から。 入り口の前に置かれた甲冑 |
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兜には城の鎮護と防火の神様、 愛宕大権現守札(あたごごんげんまもり)が。 |
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古今著名刀匠国別一覧の地図 |
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五ヶ伝。日本の刀作りの5つの流派。 山城伝(京都)大和伝(奈良)備前伝(岡山)相州伝(相模)美濃伝(岐阜)があり |
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各流派の特徴は写真の通りとなっている |
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刀の各部分の呼称 |
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刀の地肌(鋼を折り返し鍛錬する事で表れる刀身の地の模様)や 刃文(焼き入れを行う際に現れる刃の波模様) |
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茎(なかご)(柄に被われる部分)等の解説 |
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お次は刀の歴史の展示 各時代に必要とされた刀の移り変わりをご紹介 |
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平安時代:歩兵戦から馬上戦へと変化した為、 直刀から長く剃りのある湾刀に |
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鎌倉時代:反りは深く長くなり幅広で重ねが厚く折れにくくなる。 刃文は華やかに |
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南北朝時代:軽量化が進み、重ねは薄く強度を保つため身幅は広くし 約87cmの大壇段平となる |
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室町時代前期:「刀」というと打刀(うちがたな)を指すようになる。 地上用で反りは浅く長さは太刀より短い64~67cm。 歴史上初の脇差し(37cm程)が作られ、武士は二本差しが確立する |
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戦国時代(室町後期):戦乱の世になり刀剣の需要が急増。 数打物(かずうちもの)と称する粗悪な刀が多くなる |
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桃山時代:豊臣秀吉が天下統一。新刀時代と言われる。 実践に最も効果的である大太刀を腰から抜きやすくする為、 長さは87cmほど、身幅広く元先の差がなく重ねが厚くなる |
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江戸時代、慶長新刀期:大名家の取り潰しで増加した浪人が仕官を望み剣術が流行。 斬るよりも刺す剣術となり反りは浅く、身幅は広く重ねは厚くなる |
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江戸時代、寛文新刀期:剣術が一層流行し極端に反りが浅くなる。 無反り(反りが9mm以下)で先幅も短く、刃文は派手になる |
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江戸時代、元禄新刀期:天下太平の世となり刀工の数は寛文の半分に減少。 華美な刀、技巧的な刃文が好まれる |
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江戸時代中期、新々刀前期:古刀復元に力が注がれる 地肌は鏡のようになり新刀のように焼き出しはなく 古刀のように元から乱れ刃文が始まる |
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お次は刀ができるまでの工程の展示 |
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使用する材料や道具を |
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順を追って図解や写真つきで |
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わかりやすく展示している。 |
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刀資料館の次は時代劇撮影所。第一の間。 時代劇映画によく取り上げられ愛された武蔵坊弁慶と |
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「燕返し」で有名な佐々木小次郎 |
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白馬に乗って写真を撮る事もできる |
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第二の間は長屋の一室。 映像撮影専用のスタジオセット |
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天井には伊達家の家紋「竹に雀」(仙台笹とも) 正宗が使用した数多くの家紋の中でも特に有名 |
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第三の間は武家屋敷 |
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本日3つ目の甲冑! |
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以上!登別伊達時代村でした |
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本日のおまけ:お見送りして下さった町娘さん! |